向原の選択(552年)
飛鳥の阪田の丘。朝霧が畑を包み、遠くの山々が白く霞んでいた。
蘇我稲目は、馬を降りて坂田原の草堂を見つめていた。
簡素な木造の建物。その前に、渡来系の男たちが静かに礼をしている。
その中心に、司馬達等の姿があった。
稲目は言葉を発さず、ただその所作を見ていた。香が焚かれ、仏像に向かって祈る姿は、神祇の祀りとは異なる。
「これは…祈りか、秩序か」
稲目は独り言のように呟いた。
彼の背には、数人の従者が控えていたが、誰も口を開かない。
司馬達等が稲目に気づき、静かに頭を下げた。
「大臣様、ようこそ。これは、海の向こうより伝わりし仏の教え。
人の心を整え、争いを鎮めるものと、我らは信じております」
稲目は一歩近づき、仏像を見つめた。
金属の光が朝の霧に濡れ、静かに輝いていた。
「神々は怒りをもって人を律す。
だが、これは…怒りではなく、沈黙で人を縛るようだな」
達等は微笑した。「怒りではなく、因果でございます。
行いが報いを生み、報いが心を整える。
それが仏の道でございます」
「神祇とは異なる秩序が芽吹いている。
それを見過ごすわけにはいかぬ」
稲目は馬に戻り、手綱を握った。
「達等よ、我はまだ信じぬ。だが、見届けよう。
この祈りが、国を整える力を持つかどうか」
達等は深く頭を下げた。
稲目は馬を進めながら、心の中で思った。
神祇の気配に加えて、理と因果の秩序が必要になる時が来るかもしれぬ。
その時、仏の像はただの異国の神ではなく、倭の政の柱となるかもしれぬ。
冷たい風が吹き抜ける初冬の宮廷に、海を越えて使者が来た。
百済(くだら)からである。
大王(おおきみ)の脇で大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そが の いなめ)、大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべのおこし)と連(むらじ)の中臣鎌子(なかとみ の かまこ)らの見守っている。
使者は恭しく海の向こうの百済の様子を伝えた。
(大臣おおおみ:執政のトップ、大連おおむらじ:軍事トップ)
「聖王様の御代、仏教や儒教により国内は整い始めました。 しかしながら、高句麗(こうくり)との争いは尽きず、平安の兆しはまだ遠く……」
「なるほど――では我に、助力を求めるということか?」
使者は黙ったまま、答えません。
使者は言葉を返さなかった。ただ静かに、奉られた文箱を押し出した。
その箱に大王が目を停め、布を丁寧に剥がすと、黄金の仏像が静かに姿を現した。
「これは……?」
「我が国に安らぎをもたらした、今来の神(いまきのかみ)の仮の姿でございます。 この巻物にこそ、その教えがございます」
「そうか、見せてみよ」
大王は目を細め、巻物を手にしたが、それは簡単に読めるものではなかった。 神々に仕える身として、大王は迷った。
やがて群臣に問いかけると、蘇我稲目が進み出て口を開いた。
「西蕃の諸国皆これを礼す。日本のみ、背くべきや」
物部尾輿、中臣鎌子は大王の前にひざまずき、答える。
「天地百八十の神を祀る我が国に、蕃神(あだしくにのかみ)は不要。怒りを招くだけ」
沈黙が、宮廷を包んだ。
大王は静かに目を閉じる。
「ーーーー稲目、試してみよ」
仏像は稲目に渡され、向原の稲目の邸宅近くに安置される。 (小墾田、向原、豊浦はほぼ同じ場所)
稲目は、炎が天へ舞い上がるのを、無表情で見つめていた。
その背に、誰も気づかぬ微かな吐息が漏れた。
「民は恐れる。神々は怒る。だが――」
稲目は目を細めた。
「この像が、海の向こうで秩序を築いたことを、我は知っている」
彼にとって仏像は、信仰ではなく秩序の象徴だった。
祟りの声が囁かれようとも、この像がもたらすものは、混乱ではなく統制。
稲目は炎の向こうに、まだ誰も見ぬ未来の倭国を見ていた。
やがて疫病が国を覆う。 民は倒れ、祟りの声が囁かれ、尾輿と鎌子は言った。
「蕃神の怒りにございます」
伽藍には火が放たれ、仏像は難波の堀江に流された。
稲目は、炎が天へ舞い上がるのを、無表情で見つめていた
(この像が長野の善光寺の像と言われる)
(552)
翌年の事
冷たい霧が満ちる朝、佐伯連(さえきのむらじ)は船の縁に手をかけた。
水面の向こうに浮かぶのは百済の浜、聖王が治める国。
ついに倭国に助力を乞うた
――高句麗の圧迫、新羅(しらぎ)の裏切り。
盟友は国を守るため、兵を送ることにした。
若い佐伯連は、大和の地で訓練された兵士を率いていた。
百済では貴人として遇された。
戦況は急だった。百済は戦を仕掛けたが、新羅の奇襲を受けてしまう。
それに聖王は斃(たお)れた。
佐伯連は若き王子余昌とともに、前にいた。逃してしまった兵に王は討たれたと聞く。
王を失った我らは退いた、苦渋とともに。
宮廷は混乱した。
倭軍は撤退を余儀なくされた。
「なぜだ! 手を差し伸べられて、握ったのにも拘わらず、無理に振りほどくとは!
義はないのか!」
佐伯連も兵とともに舟に乗った。胸のうちには残された王子・余昌を行く末を案じていた。
「この国が再び立ち上がるとき、私はその橋になる」と、離れていく船の上で誓った。
—
(554)
佐伯連は帰国後、大王へ
「我ら力足らず。」
「そうか....」
佐伯連は何も答えなかった。
稲目様から話を聞かされた、引けと指示したのは物部と。
(自分の覚え:554 聖王の皇子余昌皇子29歳 稲目48 馬子3 佐伯連30歳ほど 物部尾輿 60歳ほど 守屋 15~20 欽明天皇54 )
(自分の覚え:561年頃:百済政権の安定と文化回復 王子余昌が威徳王として即位(36歳)し、政権はようやく安定に向かう。 その頃、倭国では蘇我馬子が仏教導入への動きを強めていた。 百済に造仏や経典の供与を打診するため、馬子は信頼のおける人物を探す。 かつて聖王支援で百済に赴いた佐伯連が再びその任に選ばれる。)
海の向こう百済の都・熊津の冬空に、王宮の屋根が鈍く光っていた。
聖王死後、国内は混乱。王子が悩まれている。
謀略が巡らされ、弟を押すものもあらわれた。
(561)
聖王が斃れてから七年、混乱と動乱の歳月が過ぎ去った。
静かに立つ男が玉座に座った。
威徳王 若き日は余昌と名乗った者である。
余昌の即位後も緊張は続いた
反勢力の排除、王権の再構築と中央集権化、
変わらずの高句麗・新羅への警戒、
後ろ盾になって欲しい中国北朝の戦乱・滅亡。
休む間はない。
炎が天へ舞い上がったあの日から、幾年が過ぎた。
蘇我稲目は、再びその地に立っていた。
「祟りと呼ばれ、焼かれ、流された像。
だが、あれは祟りではなく、問いだった」
稲目は独り言のように呟いた。
従者は遠くに控え、誰も近づかない。
552年、仏像が堀江に捨てられた。
民は疫病に怯え、物部は怒りを燃やした。
だが稲目は、その混乱の中に秩序の萌芽を見ていた。
「神祇は気配をもって人を律す。
だが、気配は風に流れ、見えぬもの』
仏は像をもって人を縛る。
像は、風に抗う柱となる」
稲目は、坂田原の草堂を訪れた。
司馬達等は老いていたが、仏像の前に静かに座していた。
「達等よ、あの時の像は焼かれた。
だが、我は忘れてはおらぬ。
あれが、国を整える力を持つことを」
達等は微笑した。「大臣様、私どもは仏を信仰しておりますが、彼の地では教えを元に天子が国を統べておられます。
人の心に、因果の理が根づけば、政もまた整うでしょう」
稲目は頷いた。
その後稲目は静かに動いた。
彼の地の仏教、儒教などを調べされることとした。
「今の世に、仁と礼を。和と敬を。
神祇の祀りの背に、因果の理を」
(581)
王になって20年。
隋による中国の統一、国交関係の確立を経て、急ぎ威徳王は使者を送る。
—
倭国では政の匂いが変っていた。欽明大王と蘇我稲目の時代ある。
使者は伝えた。
正式な王になったこと、かつての支援の礼、また最後に百済への使者派遣の要請を。
「誰を渡らせるべきか」
宮廷内に静かに名が挙がる。
「かつて百済に赴き、命を賭して、王子に仕えし者、佐伯連、佐伯丹経手(さえき の にふて)がよろしいかと」
稲目の声だった。
—
熊津の都は、朝霧に包まれていた。 王宮の石畳が露に濡れ、衛士の足音が規則正しく響く。
佐伯連は、百済の使節殿の前に立っていた。あの激しい戦の日から、七年。
かつて聖王と共に戦場を駆けた王子・余昌が、今やこの国の王となっていた。威徳王の名を帯び、周囲には新たな輝きが宿っている。
扉が静かに開き、余昌が姿を見せる。
「佐伯…連か」
その声は、あの夜明けの丘で誓いを交わした時と変わらなかった。
佐伯連はひざを折り、深く頭を下げる。「王、変わらぬご壮健、何よりでございます」
余昌は微笑し、手を伸べた。「あの時、倭より来た兵の中に、お前がいたことは忘れてはおらぬ。父を失ってなお、お前の眼差しだけが国に希望をくれた」
二人は言葉少なく、庭を歩いた。 枯れかけた柳に風が通り抜け、少年だった過去がその音に紛れて揺れた。
「我が国は再び倭と手を取り合いたい。だが、政治の言葉だけでは届かぬ。人の縁こそが国を繋ぐ」
佐伯連は目を上げた。「倭にも、王の志を知る者が多くございます。私は…その声となりましょう」
—
別れの際、余昌は細やかな装飾の品を佐伯連に託した。それは外交使節への贈り物ではなく、個人の感謝のしるしだった。
「次に会うとき、我らはただの王と使者ではない。それ以上の何かであってほしい」
佐伯連は舟へ向かう背に、言葉を残さず深く礼をした。
海が静かにうねるその先に、倭の未来が待っていた。
船の中、贈り物を確認する。その中には王にお願いした仏像と経典が確かに入っている。
稲目から密かに言われた命を達成できたことに安堵していた。
---
584年:帰国する佐伯連
佐伯連は静かに進んだ。白い袍の裾は露に濡れ、長い旅路の疲れを帯びながらも、足取りは迷いなかった。
左右に並ぶ文官たちの視線を背に受け、大王が待つ紫宸殿へと進む。
欽明大王は高座にあり、左右に蘇我稲目、物部尾輿、中臣鎌子らが控えていた。
佐伯連は文箱を抱え、三歩下がってひざを折った。
「無事帰参つかまつりました」
大王は静かに頷いた。
「して、向こうの様子はいかなるか」
佐伯連は言葉を選び、深く頭を垂れた。
「王威徳さま、国政をよく治め、倭の誠実な助力を今も忘れずと。倭国との結び直しを、何よりも望んでおられました」
文箱が前に差し出される。
「この品々は、百済の王が“ぜひとも大王に捧げたい”と申されました。これは巻物、王が自ら筆を執った私信にございます」
侍従が箱を開ける。そこにあったのは装飾が施された文巻と、小箱。
侍従が小箱の蓋をゆっくりと開けると、金色の光が室内に広がる。精巧に彫られた仏像が、静かに姿を現した。
大王は目を細めた。
「あの王が…これを我に」
佐伯連は続けた。
「仏像もまた、王がぜひとも我らと共にと。大王の御前に置かれるべきものと。安寧を祈る御心が込められております」
蘇我稲目の目が光った。
物部尾輿は眉を寄せたが、語らぬ。
大王はしばし沈黙し、仏像を見つめた。
「百済は誠に誠を返してくれたか……」
外の風が木々を揺らす音が、殿内にも届いていた。
遠く離れた国の王の思いが、この瞬間、倭の政の心に届いたのだった
御目通りの後、稲目が佐伯連に言った。
「私の命をよくぞ叶えてくれた」
その声は静かだったが、確かな熱を帯びていた。
「この像は、ただの贈り物ではない。倭が海の向こうと並び立つための証だ」
佐伯連は頷いた。
稲目は続けた。
「神祇の祀りは我らの根だ。だが、根だけでは風に耐えられぬ。枝を広げ、葉をつけねばならぬ」
その言葉に、佐伯連は初めて稲目の真意を知った。
仏像は信仰ではなく、倭国の未来を繋ぐ鍵だった。
佐伯連は深々と頭を下げた。
(自分の覚え:584 稲目78 馬子33 佐伯連60歳ほど 物部守屋45〜55歳前後)
崇仏と廃仏 再度
ほどなくして、都に疫病が流行した。物部氏はこれを「仏像の祟り」と断じ、朝廷に訴える。
稲目は反論する。「これは浄化の過程だ。新しき神が古き穢れを洗い流しているのだ」と。
だが、天皇は動揺し、両者の争いは激化する。ついに、仏像は朝廷の命により没収される。
敏達(びだつ)天皇13年(584年)の頃、蘇我馬子が
司馬達等(しば の たちと)と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗の恵便という還俗者を見つけ出した。
馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼,恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
祠の咎(585年)
馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。
馬子は敏達大王に奏上して仏像を祀る許可を得た。
物部守屋と中臣氏が勢いを増す中、蘇我馬子は寺を築き仏像を再度祀る。
しかし疫病が地を覆い更に広まり、守屋は
「これは蕃神の祟り。焼き捨てる他なし」
敏達天皇は守屋の訴えの元、仏教崇拝禁止の詔を出す。
守屋は寺に向かい、馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。
馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打ち、仏殿を破壊。
物部の兵が仏像を運び出し、夜の難波堀江の水辺で仏像を縄で縛り、沈める。
「異神よ、国を惑わすな。ここに眠れ」と尾輿は呟いた。
水面に広がる月光の中、仏像は静かに沈んでいった。
しかし、同年6月 疫病は治まらず敏達大王も守屋も病気になった。
敏達大王は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
585年6月、敏達大王は病に伏し、崩御する。
葬儀を行う殯宮(もがりのみや)で馬子と守屋は互いに罵倒した。
馬子は病気が治らず、「仏像を焼いた罪である」と言った
朝霧が庭を包み、神々の気配が漂う中、群臣は静かに佇んでいた。
穴穂部皇子は、殯宮の庭に立っていた。その目は、玉座の間を見据えていた。
「我こそが、王にふさわしい。父は欽明、母は蘇我の血。なぜ、誰も我を推さぬ」
その言葉に、物部守屋は頷いた。
だが、宮廷の奥では別の声が響いていた。
蘇我馬子は、静かに大兄皇子の名を挙げていた。
「用明様こそ、政を知り、仏を知る。
倭の未来は、祟りではなく理にて築かれるべき」
馬子は、稲目の遺志を継ぎ、仏教を政に活かす者として、用明天皇を推した。
群臣は揺れた。
穴穂部皇子は血統を誇り、守屋は武力を誇った。
馬子は思想を語り、用明は沈黙を守った。
585年10月3日
やがて、大王の座に用明天皇が即位することが決まった。
橘豊日皇子(欽明大王の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し
その日、穴穂部皇子は宮廷の外にいた。
守屋が告げた。
「皇子よ、まだ終わらぬ。玉座は奪われたが、政はまだ動く。我らが力を見せる時が来る」
皇子は頷いた。
「ならば、次は馬子を討つ。仏の像など、祟りの源。倭に蕃神は不要」
玉座の影で、次なる争いの火種が静かに燃え始めていた。
用明天皇2年4月2日(587年)、用明大王は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。
守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。
守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
587年4月9日用明大王が崩御、
587年5月、穴穂部は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと:敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を奪わんと、殯宮に押し入ろうとした。これに対し敏達天皇の寵臣三輪逆は門を閉じて拒んだ。
「なぜ、死した王に仕え、生きる我を拒むか」
穴穂部皇子は7度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。
穴穂部皇子は「この者、我を侮る。」
蘇我馬子と物部守屋には不遜であると相談し、馬子は頷くしかなかった。
守屋は頷いた。
「兵を出し、磐余の池辺にて逆を囲むべし」
三輪逆は逃れ、炊屋姫の後宮に身を隠した。だが、密告により居所が知れ渡る。
穴穂部皇子は命じた。
「逆とその子らを討て」
門前で馬子が立ちはだかった。
「王者は刑人に近づくべからず」
皇子は聞き入れず、馬子は仕方なく従い、守屋は兵を率い、夜の池辺を進んだ。
磐余に至り、皇子は胡床に座して守屋を待った。
やがて守屋が戻り、静かに告げた。
「逆、斬り捨てました」
皇子は頷いた。
馬子はその場で呟いた。
「天下の乱は近い」
守屋は笑った。
「汝のような小臣の知るところにあらず」
風が吹き抜け、殯の庭に血の匂いが残った。
…
6月7日、
殯宮の空気は重かった。
香の煙が天井近くに滞り、誰もが言葉を選びすぎて沈黙していた。
蘇我馬子は、沈黙の中に立っていた。
炊屋姫尊は、白い麻の衣をまとい、玉座の前に座していた。
その眼差しは、香の向こうにある何かを見ていた。
血の流れか、神の意志か、それとも人の業か。
馬子が進み出る。
「穴穂部皇子と宅部皇子、どういたしましょう。あまり暴挙。
このままでは、天の位が乱れます。」
炊屋姫尊は答えない。
その沈黙が、場を裂いた。
やがて、彼女は右手を上げた。
佐伯連丹経手と土師連磐村が前に進む。
声は、彼女の口からではなく、儀礼の代言者から発された。
「炊屋姫尊の詔を奉ず。
汝ら、厳兵を整え、穴穂部皇子と宅部皇子を誅せよ。」
その瞬間、殯宮は変わった。
死を悼む場が、政治の断を下す場へと転じた。
香の煙が揺れ、玉座の背後にある幔幕が微かに鳴った。
実行を任されたのは、佐伯連丹経手(さえきのむらじ にたて)。
彼は密命を受け、皇子の居所に向かう。
その夜、磐余の館にて、丹経手は刃を振るい、穴穂部皇子を討った。
皇子は声を上げる間もなく倒れた。
その死は、朝廷に静かな衝撃を与えた。
馬子は表に出ず、ただ秩序の回復を告げるのみ。
587年7月 丁未の乱
馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子,諸豪族の大軍を挙兵した。
夏の陽が焼ける頃、朝廷は揺れていた。
用明天皇の崩御から間もなく、物部守屋は兵を集め、渋川の居所に稲城を築いた。
神祇の軍神を祀り、大矢を天に放つ。
その矢は、祟りの意志のように空を裂いた。
蘇我馬子は群臣を集め、言葉を整えた。
「理を乱す者を討たねば、国は祟りに沈む」
諸皇子、諸豪族が応じ、大軍が編成された。
軍は河内へ進む。だが、物部の兵は精強。
稲城は三度、馬子軍を跳ね返した。
餌香川の水は赤く染まり、皇族たちは戦の恐怖に足をすくませた。
その夜、厩戸皇子(うまやとのみこ:後の聖徳太子)は白膠木を削った。
四天王像を彫り、祈りを捧げる。
「勝てば塔を建て、仏法を広めん」
その声は、軍の中に静かに響いた。
馬子も誓った。
「祟りに対して、理をもって応えよう。
寺塔を建て、秩序を刻まん」
翌朝、軍は奮起し、太子の祈りが風を変え、馬子の誓いが刃を導いた。
戦場の樹上に、迹見赤檮が登った。
枝を踏みしめ、弓を引いた。
守屋は稲城の上に立ち、神祇の言葉を叫んだ。
だが、矢は沈黙の中を走り、守屋の胸を貫いた。
物部の旗は倒れ、祟りの声は止んだ。
馬子は立ち、太子は像を前に座した。
その日、国は祟りから理へと移った。
587年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻(すしゅん)天皇とした。
天皇と大臣、大連で進めた統治は、この乱で、天皇+大臣で統べることとなり、馬子は大連の持つ軍事指揮・神祇儀礼・警察権をも手中とし、長きの崇仏廃仏の争い、信仰を盾にした恨みの連鎖が閉じることとなった。
しかし、それでも争いは続く。
588
馬子は、遂に大寺建立に着手する
法興寺(飛鳥寺)造営である
馬子は立柱時に身につけていた勾玉、管玉、ガラス、水晶切子金環などを功徳があるものとして、古墳同様に捧げた。
百済から僧、寺工2.鑪盤博士.瓦博士4、画工を招き入れ、宮より大きな仏教施設を考えていた。
これをある男は心良くは思っていなかった。崇峻天皇であった。
馬子から擁立されたことはあっても、傀儡と蔑まされるのではと。
馬子にとっても崇峻は目論見から外れていた。次第に独自の政治姿勢を見せ始め、政治の拠点を山間部の倉梯宮に移したり、大伴氏の女性を妃にしたりと、馬子の思惑から逸れていきました 。
海の向こうでは隋が統一王朝 高句麗へ大軍を派遣し(589)その行く末も気にかけなければならない中
倉梯宮の朝、秋の風が冷たく吹いていた。
献上された猪が、玉座の前に伏せられる。
崇峻天皇は黙して見つめ、笄刀を抜いた。
「この猪の首を斬るように、朕が憎む者の首も斬りたいものだ」
刀は猪の眼を貫いた。
その言葉は、静かに空気を裂いた。
その場にいた者は沈黙した。
だが、言葉は壁を越え、耳を越え、蘇我馬子のもとへ届いた。
馬子は倉梯宮の奥で言葉を繰り返した。
「憎む者…それは、我か」
馬子は沈黙し、やがて命じた。
「東国の調を進める儀を設けよ。天皇を臨席させよ」
儀礼の名を借りて、空間を整えた。
その場に、東漢駒(やまとのあやのこま)を呼び寄せた。
儀式の日、崇峻天皇は倉梯宮を出て、調の場に赴いた。
祭壇の前、香が焚かれ、楽が奏された。
だが、楽は止まり、香は揺れた。
東漢駒は静かに近づき、刃を抜いた。
天皇は振り返る間もなく、血が衣を染めた。
その場に馬子はいなかった。
ただ、命令だけが空間を支配していた。
天皇は即位して五年、崩御は十月。
倉梯宮は沈黙し、政は再び動き出した。
馬子は言った。
「秩序は乱れぬよう、祟りより先に理を整えよ」
その言葉は、飛鳥の寺に刻まれた。
炊屋姫は推古天皇として即位し、厩戸皇子(聖徳太子)が政務を補佐する体制が整う。
この事件は、蘇我氏による政権掌握の転機であり、武力ではなく儀礼と秩序による政治の再構築を象徴するものとなった。