社務所で見つかった「姫郷地名鑑 徳川三代将軍言上控」を現代文に翻訳したものです
孝徳天皇の娘、綾姫様が都での認められない恋愛によって都から追放され、舟で流され萱口(かやぐち:姫小川の近辺)にたどり着いた話であり、綾姫様が住まわれたことで姫郷小川村、姫小川になりました。
詳しくは昭和50年発効の「姫小川の由来」を一読ください
安城市図書館や桜井支所の図書館に所蔵されています。
原書は残念ながら行方知れずとなっています
私たちの姫小川町は今、200世帯、人口820人です(昭和50年8月1日現在)。およそ90年前明治21年の碧海郡姫小川村は59戸だったといいます。ずいぶんにぎやかになったものです。
この町の歴史は古く、地名の起こりを説明する伝説もあります。それは桜井ではよく知られたことで、語のあらすじをきちんと話せる古老も多いと思います。しかし若い人たちの間では必ずしもはっきりとは知られていないのではないでしょうか。このたび、村の方々と神社の社務所を整理したところ、伝説をしたためた書物が出てきました。私自身、何か、なつかしいものに出会ったような気がして、うれしくなりました。そして、ちょうど遊園地「古墳の森」が、大勢の方々のお力添えで造られた時でもありますので、伝説全文の印刷を思いついたわけです。
伝説のなかに河内の壬生みぶという地名が出てきます。そこは今どうなっているか知りたくて、大阪へ電話したところ南河内みなみかわち郡太子町の教育委員会から、予想以上の答がもどってきました。そこには孝徳天皇の御陵ごりょうがかつて、小松などの姓が、今も残っているとのことでした。私たちの町には、伝説があるだけでなく、姫君の墓といい伝えられる塚も現存します。歴史と伝説とは区別しなければならないので、物語の全てが史実とは思いません。しかし、何かの事実があって、それに尾ひれがついて、今のものになったように、私には思えてなりません。
こんど、伝説を印刷するにあたって、今の私たちや子供たちにも読みやすいものにしたいと考えました。そして、桜井中学の校長西村清先生に相談したところ、天野暢保のぶやす先生に文と註訳を書いていただくことになりました。天野先生は、書きなおすにあたって、今の言葉にないものもあって、どうするか困られ、校長先生や私に相談されましたが、思いきりわかりやすく書きなおしてもらいました。そのために、元の意味をこわしてしまった部分もあるかもしれません。私としては、古いものを洩らさず後世に伝えたいし、かといって、今の人にわからないものではだめだと思います。いたしかゆしですが、ここではとりあえず、後者を重視することにしました。今後三十年か五十年後の人たちが、この冊子や古い書をみなおして、そのときはまた、その時代の人の言葉で伝えてくれればよいと思っています。 この冊子が、歴史をふりかえるきっかけをつくり、心の故郷について考えていく助けとなれば、幸尽です。
昭和50年8月15日 発行者 野村 力
37代孝徳天皇(1300年前)の御代のことでした。このあたりは海のほとりでおよそ一里四方の土地は「萱口」といっていました。東は三里余り上手まで潮がさし、波のただよう入海でした。またこの萱口港は国府のある宝飯の港まで海伝いに行けました。東の方の土呂の里までは二里ばかりです。ある時、用のある者が土呂から舟を仕立てて、竿と帆を使い渡って来ました。船頭は陸に上って用をたしている間に、日暮となりました。しかたなくその夜は萱口に泊まりました。
翌朝、土呂まで帰ろうとした船頭は、浜へ出てみると、みたこともない粗末な舟が、波打ちぎわに流れ者いていました。船頭は怪しく思って、舟の中をのぞいて見ると、病人かと思うほどの女の人が二人いて、苦しそうな声で助けをよんでいました。
こわくなった船頭は逃げ帰って、村長の小川伝太郎のところへかけつけました。伝太郎はとるものもとりあえず、艪本平馬・鵜飼権平・早川六松の三人をつれて浜辺へ出て見ると、船頭がいう通りでした。
みすぼらしい舟の中には、疲れ衰えた女が二人いました。一人は麻の着物を着てはいますが、中啓とよばれる扇⑳をもっているので、とても平人とは思えませんでした。
伝太郎は尋ねました。そこもと様はどこの国のお方ですかと。
下女が答えました。このお姫さまはご流浪のお身の上です。あからさまには名乗れませんが、お情があったら、どうぞ陸地へ上げてください。と手を合わせてたのみました。
気の毒に思った伝太郎は、それでは舟からおおりください、と申しました。下女はお礼を述べましたが、なにしろ疲れに疲れています。立つこともできませんでした。伝太郎はかたわらに居あわせた権平と六松に申しつけ、お二人方を抱きかかえるようにして土手の上へおつれしました。高くて平な所をさがして、わらをしいて、その上にやすませ、熱いお茶やおかゆをおすすめして介抱申し上げました。
お姫さまはたいへんお喜びになって、下女の方は村の人人に、お情深いお方様にめぐり合い、不思議に命が助かりました。こんなにうれしいことはありません。今後、この御慈悲は命の親様と思います、とお礼を伸し述べました。またつづけて下女の方は申しました。
このお姫様は、恐れ多くも神国人皇37代の御帝の御所にお生まれになられた綾姫様でございます。そして、私は河内壬生村の小松金伯と申す本道家の医師の一女として生まれました。名をいしと申す女でございます。世継ぎの男子がなく、婿養子をむかえ家を継がせようとしたところ、男の子が生まれました。名を金治とつけましたが、金治が二才の春、夫はふとした病から亡くなりました。
そうこうしている間に、皇后様が、お子をお生みになることとなり、乳母として私をお召しくださいました。私は、二才の金治を祖父母に預けて御所へ参りました。そうしてお生まれになったのが綾姫様でございます。御誕生のとき、私は乳母 石の局という官名をいただき、お姫さまをお守りすることになりました。
綾姫様はお乳もたくさん召しあがられ、たいそうごきげんよく、ご成長あそばされました。たいへん才智にたけたお方で、何から何まですぐれておられ、その上ご容貌もおきれいにお育ちあそばされました。
その後、またたく間に月日がすぎ、御年十五才におなりになったころ、若気の至りと申しましょうか、よろしくない行ないのことで、御所においでになることができなくなりました。
皇女としてのご身分を退かれ、綾や羅・錦といったきらびやかな衣服はお脱ぎになって、麻の衣をまとわれ、麻の被衣をかぶられることになりました。そして闇夜のある晩、摂津国豊崎の都をお立ちになりました。 紀伊国の海岸までお見送りがありましたが、お供の者がわずか三人というさびしいものでした。そこで浜辺に用意されたみすぼらしい舟にお乗りになりました。都とのお別れの標には、お菓子の壷一つと、蜂蜜の壷一壷とが乗せられました。これがこの世のいとまごいかと思われるほどさびしいものでした。私にもお側に附添う者としてお咎めがあり、同じ舟に乗せられました。お供の者たちとは涙ながらにお別れしました。お姫さまの小舟は大きな舟に綱をひかれて波の荒い沖合いまで引出されました。そこで綱は捨てられ引き舟は逃げ帰ってしまいました。
何とこわいこと、恐ろしいこと、舟はいつしずむともしれないほどゆれにゆれ、波の逆巻く音は、肝を貫くほどでした。恐ろしやこわやと思いつづけているうちに、ここの浜、あそこの岸へとたどりつくこともありました。けれども陸地へあげてくれる所はなく、岸につくと、役人たちが迷惑がって沖へもどしてしまうほどでした。
恐ろしさはなんともいいようのないものでした。いっそ身を投げて、鮫の餌食になりましょうと思うことも何度かありました。けれども私が死んでは、後にお残りのお姫さまのお身の上はどうなることかと案じたり、うろたえるばかりでした。
思えば、そんなことを考えることだけでももったいないことです。胸の中でおわび申し上げて、心を金石のようにかたくし、たとえ骨はくだけても、お姫さまの将来のお見通しがたつまでお見とどけしようと、心の底から魂をいれかえる決心をしました。そうしているうちに、不思議に命はながらえて、しあわせをことにこの里に着きました。皆様方のご親切をお情は、子孫にも忘れないように伝えましょう。
このように物語る乳母の言葉を聞いて、そこにいあわせた人々は、皆涙を流しました。語り終った局はほっとしたのか、ここはどこの国、どこの里とお尋ねになりました。伝太郎が答えて、西三河州萱口の里と申す港です。この国では宝飯の郡に天朝様の府があって、宝飯の国府と申します。私はこの萱口を支配する小川伝太郎と申す者です。ここには二十五屋敷とその外に水呑㉑の者がおよそ二百軒あります。この者たちは脇本平馬・鵜飼権平・早川六松・鹿嶋太郎七、またこの者は垣口玄雄という神職の者です。と説明しました。
乳母はこの上は万事よろしくおたのみしますと申しました。
村の人々はすぐさま集まって、丸太を集めて、茅や藁で雨露をさけるようにし、四方をかこんで仮の御殿をこしらえました。仮御殿はその日のうちにでき、すぐにお姫さまをお移しして、ごちそうをこしらえてさしあげました。乳母は重ね重ねお礼を申し述べました。
村の人々は二、三人づつ昼夜警護につくことになりました。お姫さまは、故郷の都のことを思い出されながらも、この里に住むことは気が楽で、楽しいと人々にお礼を申されました。乳母もお姫さまのご気げんがよろしいので、たいへんよろこんでいました。
お姫さまがこの国へお着きになったことを、天朝様へお知らせ申しました。ところが何日たってもいっこうにお沙汰がなく、村では、いくらご勘当のお身の上とは申せなにかお知らせがあるだろうにと心配していました。乳母は都でのしきたりを思い出し、知人をたよってお伝えすることにしました。乳母が御所にいたころから親しくしてもらっていた、森本刑部というお裏方役㉒は、以前から情のある人でした。この方へお頼みして、お裏方から天朝様に申しあげてもらいました。
すると皇后様のお情けにより、その日のうちに矢部丹下という方がお使いとして、都を立つことになりました。お姫さまご扶助のお手当と、四人の警護をする下僕の者がきまりました。長門数馬・都築大和介・野村出羽介・河合大隅介の四人で、この村へ着くとすぐに、よい土地を選んで、五十間四方に土手をめぐらせ、よい材料で立派な御殿を造りました。そして吉日を選んで新御殿へお姫さまをお移ししました。
お姫さまご誕生の暗からのお守本尊として、聖観音菩薩像がありました。大海の舟の中ではいくつかの難関がありましたが、これをまぬがれてこられたのは、このお像のおかげにちがいなく、霊験あらたかなお像でした。そこで、この村にある蓮花寺にお祭りすることになりました。今の住職・浄賢和尚もご供養をつづけているといっています。
この蓮花寺のことは次のように伝えています。
都の蘇我稲目は向原の邸宅に向原寺を建てました。日本最古の寺院といわれています。後の橘寺です。向原の一族の方で出家して、正順と名のる方がありました。この方は諸国行脚を思いたち、あちらこちらの国を歩いておられ、ついにこの村へおいでになりました。この地でしばらくお休みになり、草原に寝起きして、民家を托鉢して巡っておられました。一日中歩いては日暮になると草原にもどり、革をかぶって寝ておられました。寝ても起きてもただお経を誦えておられるばかりでしたので、あたりの人々は同情して、その草原では霜も雪もふせぐことはできません。どうか私の家に来て暖をおとりくださいとおすすめしました。ところが僧は、あなたのお気持ちはまことにありがたいのですが、私は世捨人ですから、この世は仮りの宿、この草原を極楽世界の蓮花台と思えば、雨露も少しもいとわしくありません。あなた方の御親切にはお礼申し述べます、といいました。近所の人々は竹や木で庵をこしらえてあげました。庵の名は正順さんが蓮花台といっておられた土地なので、蓮花寺とつけました。この時から何代もたって、今は浄賢という住職がおられるわけです。
乳母の方の実子である小松金治という方は、母を尋ねてこの村へ来られ親子が無事であったことを喜びあい、ここに住むことになりました。
その後、お姫さまの御母君がお亡くなりになり、お姫さまはたいへん悲しまれました。十日の忌に服した後、法号が葺薗院様ときまりました。こうなると、御法号の文字を村の名に使っているわけにはいかなくなり㉓、萱口里といっていたこの土地は、名をかえることになりました。 そして、お姫さまがお住まいになったことと、小川伝太郎がこの土地を開いたということを、後世に伝えたいという考えで、「姫郷小川村」と名をかえることになりました。
そうしているうちに、年月の過ぎるのは早いもので、お姫さまがこの国へお着きになってから十九年の歳月がたちました。その年四月、七十一才の乳母が亡くなりました。四月十八日に蓮花寺で葬儀をし、お骨は獅子塚に埋めました。この獅子塚については次のような伝えがあります。
ある時難病がおこり、村人たちはたいへんこまったことがありました。この時、神主の垣崎龍威という方が神にうかがいをたてたところ、里の鬼門の方格(東北の角)に獅子の形に似た塚を築いて悪魔を追いはらえば病気はなおるにちがいない、とのことでした。村中の人々は集って数日間のうちに獅子の形に似た塚を造りました。神主の龍威は一日中、護摩をたきたんねんに祈祷し、村中の病気はやがておさまりました。そのときから獅子塚といっていました。
乳母のいしを埋葬してからは、石塚ともいうようになりました。
お姫さまと乳母の子、金治とはともに力をおとし、この時から金治は父母の菩提のために仏像をお祭りして、朝夕経を読むようになりました。
お姫さまはたびたび蓮花寺の観音さまへお参りされるようになりましたが、あるとき小松の生えた中から白い兎がとびだし、まるでお参りをご案内するかのように、お姫さまの前を走るのでした。このことが何度もつづいたので、人々の評判にのぼり、乳母の亡霊が白い兎になって、お姫さまのお供をするのだろうといわれるようになりました。めずらしいことなので記しておきます。
それから何年もたって、春のおわりころからお姫さまのおかげんがすこし悪くなり、食もすすまなくなりました。医師も治療にあたりましたが、ご病気はしだいに重くなるばかりでした。この回へお着きになって三十六年、お年塘五十二才におなりでした。その年の六月二十四日、とうとうお隠れになりました。警護の者四人は申すに及ばず、皆力を落し悲しみました。
御法号は蓮花寺の宮ととなえられることになり、蓮花寺で御葬礼がなされました。ご遺体は豊玉姫神社の森にお納めし、御陵を築き、皇塚の森ということにしました。そして御所においでのころは十二単衣を着ておられたのにちなんで、塚のまわりに十二段の階段をこしらえました。
また、お供の四名の者は、主人を失い力をおとしていたところ、ご扶助のお手当はさしとめられるなど、戸惑うばかりでした。それでも、家屋敷はそのまま残されることになったのは幸なことでした。そこで四名の者は自ら官を辞退し、名も一般人のように改めました。長門善太・野村長九郎・同人弟四郎治・都築平十・河合藤太などで、みを家業の農業に精をだして日を送ることになりました。
その後間もなく、小川伝太郎も亡くなりました。世継がないので、村人の悲しみは一層でした。由緒のある家名も失われることになったのは残念でした。しかし、国府からお達しがあり、もとお姫さまの警護にあたっていた四名の者が日番交替で村長を勤めることになりました。配下には二十五戸と水呑多数がありました。これらの者を農業にはげませ、国府へ租税を納めるのが役目でした (完)
この冊子に納める伝説は「姫郷地名鑑徳川三代目言上控」㉕(口絵写真の「姫郷地名鑑」を現代文にしたものである。
今回、書きなおすにあたっては、原文にそいながらも、思いきって今の言葉になおしてみた。原文の意をそこなわないようにつとめたが、筆者の語彙不足からうまくいっていない所があるかと思う。ご叱正を乞いたい。(なお原文は写真にして全ておさめた)
この「言上控」は姫小川町浅間神社に保管されていたもので、美濃版袋綴じの十五帖からなる。全く同じ文を赤い罫紙に毛筆楷書で写しとった綴りが一緒に保管されているが、これと比較すると原文第十二帖の次に四枚くらいが、失われていることがわかる。今回の製作には、失われた部分を含めて書いた。
「言上控」なるものの性格はつかみにくいが、末尾の記述をそのまま読みとると、「この度お調べがあったので、村と姫宮様のことを一句一言ももらさず述べたものである」と記し、姫郷小川村民長月番の長門善太以下五名が、白鳳十年十月に書いて、徳川三代目将軍に指し出したという形をとっている。白鳳十年は670年頃で、伝説に述べられる時代にあたる。
裏表紙に84才の野村幸助が写したとしているが、これはうたがう余地のないことである。幸助は、浅間神社境内の薬師堂㉖の瓦に同じ名がでてくる。このお堂は天保十年(1840)の建立である。そのころ筆写したものということになる。
姫小川の地名の由来については、「姫小川村地誌」(1888年明治21年成立)㉗に誓願寺住職・小松法翠一八八七年に書いたものが納められている。登場人物は姫宮様が歌千代姫㉘であるなど多少ちがいがあるが、あら筋は同じである。
本文にでてくることがらのうちには、今日知られている史実に合真部分がいくつかある。やはり、史実をつづったものではなく伝説なのである。しかし伝説に出てくる塚は、今も古墳として残っている。お姫様の塚と伝えられる姫塚古墳は古墳時代後期のもので伝説の時代と全く同じ白鳳時代に造られたものである。
姫塚古墳の上には「姫宮墓」㉙」と刻んだ古い石塔がある。宝筺印塔の断片だから古くみても中世(約700~400年前)のものだが、いつの時代かにそのような文字を彫りこんでいるのである。これには「白鳳十年」とも書かれている。
伝説にでてくる姓名のうち、小川が断絶したことは伝説にものべえられているが、ほかの小松、野村、都築、河合は今もつづいており今、知られている姫小川の古い家は、ほとんど全てこれに含まれている。伝説にでてくる畿内の地名をたどってみると、話が符合するようである。この点について、野村力さんがたしかめつつある。この地方の家々の家紋が、畿内地方の人々のものと一致することをつきとめた方もある。
それらのことが、史実とどう結びつくのか、興味のあるところである。しかし、今のところそれを突きとめることは、かなりむつかしそうである。そのようをことがらは別として、このようを長くてくわしい伝説があること自体、興味がある。いつの時にか、村の地名の起源について考えた人々があって、これをこのようを話にまとめ、伝えを定着させようとしたわけである。
① 孝徳天皇は大化改新において、皇極天皇が廃されたとき、中大兄皇子らに立てられた天皇である。在位は645年~654年である。日本書紀は第36代の天皇としている。改新の年、五十二才前後と推定される。
② 旧碧海郡の土地は、干地=洪積台地と福地=沖積低地の二段の広い平地からなりたっている。現在の姫小川の集落は、大部分台地の上にある。碧海郡の低地が全て海だったとする考えは古くからあって、この伝説もその考えをとっている。しかし、小川町加美橋の北、百メートル付近の低地には、すでに千七百年前(弥生時代後期)にはムラがあった。
③ 土呂は今の岡崎市福岡付近。
④ 壬生村については、「あとがき」参照。
⑤本道とは、漢法医のいい方で今の内科のことをいう。
⑥原文には天朝様の御簾中様とある。簾中様は貴族の正妻のことである。「日本書紀」には孝徳天皇(軽皇子)の皇后は欽明天皇の娘の間人皇女、二の妃は安部倉梯麻呂大臣の娘である小足媛、次の妃は蘇我山田石川麻呂大臣の娘である乳娘である。
⑦原文は「御不行跡」とあり、村では不純な男女交際のことだろうと推定している。なお、小松筆の本では「中大兄ノ謀反二党スルノ疑ヒ」としている。
⑧原文は「かつき」と仮名で書く。平安時代以後の女性が、外出するとき、人目をさけるために、頭からかぶったひとえの衣服のことである。
⑨孝徳天皇元年(645年) 12月、都を飛鳥の地から、難波長柄豊崎宮に移している。豊崎宮は長年所在が不明だったが、大阪市東区法円坂の発掘で発見された。
⑩蜜柑(みかん)とする書もある。原本とともに発見された赤罫の写本もそうだが、1890年 (明治23年)1月に筆写したことが明記されている都築光雄氏所蔵の写本も蜜柑としている。
⑪原文は「此人ラ密談ヲ以頼ミ御裏方江御内妻二依テ御簾中様御情ヲ持セラ連」とある。
⑫「介」とは、本来は国府の役人の次官級の役人を意味する。これに対して松平和泉守信光をどの「守」が長官である。
⑬お姫さまの御殿があったのは、今の東町獅子塚のうちの南西の端で、姫小川町誓願寺に近い地点と伝えられている。
⑭蓮花寺は今の桜井小学校の南、姫小川町付近にあったと、いい伝えている。
⑮「日本書紀」は552年のこととして記している。
⑯米津竜讃寺蔵方便法身尊像の裏書に「……志貴庄比目野郷野寺本証寺門徒、同庄米津郷道場」(延徳三年1491)、また、姫小川誓願寺歳方便法身尊像の裏書には「……志貴庄比□郷」(明応年間1491~1500年)とある。(比の下の消えて読めない文字は「目」であろう)。「姫郷」と「此目郷」は同じである。中世にはたしかに「姫郷」の名があったのであり、あるいは、今の野寺のあたりまで含んでいたのであろうか。なお、「倭名抄」(930年成立の百科辞典)は碧海郡の郷として、小河、桜井、智立、妥女、刑部、依網、鷲取、谷部、大市、碧海、樻礼、呰見、河内、大岡、薢野の十三郷を記している。
⑰東町に獅子塚という古墳が現存する。今は墳頂に秋葉神社が祭られている。もとは前方後円墳だったと知られている。
⑱姫小川には、旧村社浅間神社がある。祭神は木花開耶姫命である。
村の伝えでは、昔は海に近かったので、豊玉姫命を祭っていたが村で難産がつづいたので、甲斐国の浅間神社からこの神をいただいて来た。それ以来、難産のために死ぬ者はなくなったという。そのため今でも、産婦のお参りがある。浅間神社の本社は富士宮市にある。豊玉姫は海の女神である。産屋の屋根の葺きおわらないうちに産気づき、八尋鰐の姿になっているところを、夫の彦火火出見命にのぞき見られたので、恥じて、海中へ行ってしまったと伝えられている。なお、今の本殿は姫小川古墳という前方後円墳の境頂にある。この古墳は全長ろく66メートルあり、国の史跡に指定されている。
⑲今、姫塚古墳という綾姫さまを葬ったと伝えられる円墳が、姫小川古墳の北にあるが、このあたりから新しい公園にかけては、今も「大塚」と称されている。「大塚」と「皇塚」は文字はちがうが同じと考えてもよい。姫塚古墳の境項には、いつの時代にできたかわからないが、古石塔があって、中央に「姫宮墓」左右に「白鳳十年辛巳年」「六月廿四日」と刻まれている(口絵写真)。なお白鳳十年が西歴の何年になるかは諸説あって、きめぬくいが、そのころの「辛巳(かのとみ)年」は681年天武天皇九年にあたる。
姫小川の由来
昭和50年9月20日 発行
著者 天 野 暢 保
発行人/ 野 村 力
姫小川の由来の発行から既に五十年ほど過ぎ、最近分かったこともあり、補足を記載します
① 碧海郡の低地が全て海だったとする考え
港から海を連想していると思うが、淡水のうみ、みずうみ湖とも解釈できる。琵琶湖には港もあり、現在の言葉と当時の言葉の意味は必ずしも同じものと解釈することはできないでしょう
よって、姫小川近辺は対岸の土呂(岡崎市福岡町)まで広い湿地であったと考えることもできます。でも室町時代の岡崎六名堤から続く矢作川治水の歴史より、当時の矢作川の姿は知る影もないですが。
これをもとに西暦645年の矢作川、鹿乗川の周辺を想像してみました 別のページになります
⑬御殿
姫小川の地名には北門原、西門原、南門原があり、御殿の門が近辺にあったのではないかと考えられ、敷地は広かったのではないかと想像される。戦国時代の姫城はこの御殿の跡地に作られたのではないかと考えます。
また、遠見塚と言う地名も残っていることですし。
⑭蓮花寺
後に寺を移動、改宗し、浄土真宗の誓願寺となりました
場所は「今の桜井小学校の南」とあるが、令和6年現在、桜井小学校は移動し、
現在は桜井中央公園になっています
蓮華
「蓮華(れんげ)」は仏教の伝来とともに中国から日本に入ってきた言葉で、仏教においては「尊い仏の悟り」という意味があります。また、一般には仏教の祖である仏陀(お釈迦さま)の故郷・インドを原産国とする「蓮(はす)」や、「睡蓮(すいれん)」の総称としても知られています。
浅間神社の南、桜井中央公園の東は昔は悪原(あはら)と呼ばれた湿地があり、その湿地に蓮か睡蓮が咲いていたのでしょう。その湿地の隣の高台(現桜井中央公園)に蓮華寺はあったのでしょう
⑮向原寺(こうげんじ)
欽明天皇13年(552年)10月条の仏教初伝の記事によれば、この年、百済の聖王(聖明王)から献上された仏像を、蘇我稲目が小墾田の家に安置し、その後寺とした。
その後、国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子はこれを外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神の怒りであるとして、仏像を難波 (なにわ) の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったとのこと
⑲新しい公園
は東町浅間神社遊園を示します
姫宮墓
現在の姫塚古墳 愛知県安城市姫小川町姫49を示します
姫塚の五輪塔
五輪塔の形から見て、作られたのは白鳳時代より後ろの鎌倉時代と考えられる。令和六年三月、『姫小川の由来』著者天野暢保さんに確認に確認しました
㉑中啓の扇
親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、銀杏の葉のように上端がひろがる扇
㉒水吞
農村に居住し,田畑を所持せず,小作地を耕作して独立の生計を立てていた農民を示す
㉓お裏方様
上級公家夫人の称。公家から公家へとついだ夫人の場合に用いた言葉
㉔同じ名前
葺蘭院の葺と萱口の萱は同じ意味を持ちます
㉕「姫郷地名鑑徳川三代目言上控」
令和六年三月現在、原本の所在不明
発行者、著者、安城市暦博物館に確認済
㉖薬師堂
㉗姫小川村地誌
原本は安城市歴史博物館に所蔵。
『安城市史 資料編』P500以降に写しが載っています
㉘歌千代姫
後述の姫小川村地誌の過去帳や『地名の由来』に出てきます。ウタチヨ、哥千代
天野暢保さんに聞いたところ、「綾姫やウタチヨって2つの名前が出てくるのは歴史的な信憑性が低い場合が多いよ」って言われちゃいました
㉙『大塚』と言う地名は浅間神社と鹿乗川挟まれた地区に安城市東町大塚がある。この地区は鹿乗川の治水堤防工事後に埋め立てられてできた土地である。
別の場所には、浅間神社の南西百九十m先、姫小川町姫百二十三に『皇塚古墳』が残っており、大塚と王塚の位置ははっきりしない、混同されているものと考えられるかもしれません
その他
綾姫の埋葬について
当時は既に仏教が姫小川に伝わっており、火葬を行っていました。火葬の際に用いられた草を集めたのが、姫小川町芝山になります。
芝はススキ、チガヤ、カヤなどを含めた草を表しています。
カヤは建物の屋根に使い、ススキ、チガヤは畑の肥料や燃料に使われたりするもので、昭和20年ごろまで使われており、村ごとに場所を決めて草刈りを行っていた。
(『小川村福地のあゆみ』平成22年4月29日発行 安城市図書館所蔵より)
姫小川町 浅間神社
444-1161
愛知県安城市姫小川町姫40番地
町内会第2公民館(土曜日13時から15時)
TEL0566-
宮係 永見幸久 090-2929-1140
宮係 榊原恒明 080-5124-5847
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