鹿乗川流域遺跡群

碧海台地の東の縁、鹿乗川の周辺で発見されている鹿乗川流域遺跡群

古墳造営に伴い、稲作に向いた地でもあり一大集落となりました

江戸時代からの洪水被害がたびたび起きるようになるまで鹿乗川周辺にあったかと思います


鹿乗川流域遺跡

鹿乗川流域遺跡 地図

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遺跡群は標高9m前後の矢作川中流域西岸の沖積低地上に位置し、その支流である鹿乗川と西側の碧海台地と称される洪積台地の境に沿うように南北約5kmにわたって展開します。

 

かつては、矢作川の氾濫などによって形成された沖積微高地が島畑として残っていましたが、昭和30年代に行われたほ場整備の際にこれらの島畑から大量の土器が出土し、遺跡の存在が知られるようになりました。

 

その後に断続的に行われた発掘調査の成果から、これらをいくつかのグループごとに分類し、全体を古井遺跡群と呼ぶことが提唱されましたが、平成10年度から14年度にかけて行われたほ場整備事業(鹿乗川の河幅拡張)に伴う発掘調査によって、大量の遺構や遺物が確認され、字名ごとに遺跡名を付けていたこれらの遺跡群が、一つのものである可能性が非常に高くなってきました。

 

そのため、これらの地区に存在する遺跡を 「鹿乗川流域遺跡群」としてくくり、従来の遺跡名を使用することを控え、地区(字)ごとの様相を明らかにすることで、遺跡の範囲を再構築することとしました。

 

一連の調査によって、この遺跡群は弥生時代から戦国時代にかけて続く西三河を代表する遺跡群であることが明らかとなりつつあります。

 

近年の調査・研究から鹿乗川流域遺跡群の範囲は南端が亀塚遺跡ではなく、惣作遺跡まで含まれ、南北約5㎞になることが分かってきました。

 


古墳の造営と平行して集落があり、稲作の適地で都からの管理の対象となったようです。

当時から矢作川や鹿乗川の湿地で稲の栽培に適しており、荘の支配下、松平:家康の祖先や家臣が支配し、後の江戸時代の基盤となった地とも言えるかと思います

碧海台地は水が少なかったので、台地上は畑と2次林が中心だったようです。

 

注 安城市のHPは少し古いですね

 


 

 


姫下遺跡、周辺遺跡

姫下遺跡

鹿乗川旧河川後や古墳時代前期から中期前半の集落跡

平安時代中・後期から鎌倉時代前半の遺構・遺物が確認されています。

そこから出土した木材や花粉、プラントオパールを調査した結果では、碧海台地は緑豊かな原生林であり、縄文弥生時代にはアカガシ、クヌギ、͡コナラなどの多様な広葉樹が生え、

矢作川流域の自然堤防(微高地)にはヤナギ、湿地にはアシなどが生えていました。

 

しかし、人の営み、住居や燃料、農耕の鍬などの道具作り、古墳の造営などで、碧海台地の縁の樹木は切られ、碧海台地の縁から畑になったり、切っても根本から枝が出るクヌギなどの2次林に替わってゆきました

 

特にまだ鉄が普及しない頃では、鍬にアカガシが使われたため、古墳時代にはほぼ伐採されつくしたのかと思います

 

(その後も寺や城を作るために、樹が伐採され、荒れ地となり、

 山から杉やヒノキを運び込んだようです)

姫下遺跡は当時の植生を考えるうえで、とても注目されたようです

多くの樹、木製品が出土し、年代測定し時代ごとの植生の移り変わりなどが解るようです

 

 

 



竪穴式住居と農耕

竪穴式住居

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