其の他の資料

「姫郷地名鑑 徳川三代将軍言上控」以外にも、姫小川に関する資料がありましたので、ここに転載しておきます。

 

新たなことが判明すれば幸いです

 

 

 

 


姫小川村誌

 姫小川村村誌~明治二十一年

 

 

綾姫伝説を補間、補強する資料として、姫小川村村誌がある。本誌の原本が安城市歴史博物館内の資料として保管されているが、その写しは『安城市史 資料編』P500以降に記載されている。以下にその中で綾姫に関わる文章を記載する。

 

  地名 雑項 P502

 

芝山ハ大古姫宮逝去ノ節一夜千束ノ芝ヲツミ篝リセシ事ヨリ芝山ト云ス

 

北門原、西門原、遠見塚

姫宮御居住ノ際ヨリ大門口ニ遠見ノ矢倉アリ依テ其名アリ

 

堂開道 小川村字堂開道ノ内ニ古ヘ姫宮様ノ御守本尊ヲ安置セシ堂塔伽藍アリシカ平家兵乱ノ節元暦甲辰春兵火ニ罹リ消失ス依テ其跡ナルニヨリ堂開道ト云フナラン

 

雑項 P503

 

由緒不詳然レトモ老人云フ古伝ニ人皇三十六代孝徳天皇ノ御宇皇女不行跡ノ事アリテ御流罪ノ身トナラセラレ大化年中当村ニ着セラル故ニ村民天皇陛下ニ奉聞ヅ依テ宜旨アリテ殿ヲ築ク其後白鳳十年六月廿四日崩逝依テ此所ニ陵ヲ十二一重ニカダトリ土ニテジュウニノ段ヲ作リ其上ニ小キ宮ヲ築キタリ其後宮ヲ再建センニ其上面狭キヲ憂ヒ土ヲ荷ヒテ右陵ヲ建シト云フ村民其社ヲ皇墓浅間宮ト云伝フ今尚姫君ノ位牌所持ノ物品当村誓願寺ノ宝物トナリ居レリ依テ誓願寺雑項ニ詳ナリ明治五年十月十四日御成規ニ依リ村社ノ格トナレリ

 

誓願寺の過去帳写 P504

 

真宗大谷派誓願寺過去帳写

 

白鳳十年辛巳六月廿四日御逝去 蓮華寺宮祥岳天瑞正定聚位 俗名哥千代様古者人皇三十七代孝徳天皇鑑御姫歌千代姫宮様御不行跡ノ事アリテ流行(ママ)ノ御身トナラセラレ大化五年ニ当所ノ入江ニ御着船被遊其頃当所ヲ野村ト云シ処ニテ郷下ハ入江ノ河ナリシガ彼姫宮配流御船此処ニ着船シ玉フ里人捨置カタク時ノ御門ヘ奉聞シ奉レバ居住シ玉フヘキヨシ勅宣アレバ速ニ御殿ヲ造リ移シ奉リケリ

 

永禄7812日御往生

楽宝院殿釋幽鑑真光覚位 俗名内藤弥治右エ門清長様

弘長3313

釋祐信承認

弘安4911

釋祐了上人

注釈

白鳳10年 西暦681

永禄7年 西暦1564

弘長3年 西暦1263

弘安4年 西暦1281

 

樹木 P507

大榎 老人云フ古伝ニ姫宮様御流罪ニテ此地ヘ御着岸アリシトキ御目ガケラレタリト云フ此樹ハ甚タ大木ナリニシヤ其時ノ里人此樹ニ雲カカレバ必ス雨降ルト…

其朽根ハ八十余年前迄今ノ誓願寺ノ門前ノ都築太郎ノ屋敷西南隔ニ其経凡壱丈有余モアリシカ何分小児下郎ナレハ聢ト覚ヘハシト云々

 

笠松並石碑 今ニ考フルニ河合姓ノ屋敷ノ近傍ニ皇墓(a)ト言フ墳墓アリ大概其跡ナラン依テ墓ノ部ニアリ

 

 

 

脚注

(a)皇墓

令和64月において、皇墓は王塚古墳 愛知県安城市姫小川町姫123を示しているのかもしれない。

『姫小川の由来』の脚注⑲では大塚と王塚は同じと捉えてよいと書かれているが、

皇墓も大塚、王塚と同じに解釈することもできるのではないかと考える。

如何せん、何が正しいかは確認できるだけの情報はない。

 

 

地名の由来 P507

姫小川之古ヨリ沿革ヲ記セハ大古ハ此近辺ハ総シテ野村ト称セリ南南東ハ遥カニ遠ク遠州灘ノ内海入江ナルヘシ是第一点タル地ノ古代ノ有様也

村ノ沿革ハ此郷ニ古ヨリ姓ヲ坪内ト称スル者数代ノ土民タリ既ニシテ人皇三十七代孝徳帝ノ御皇女ウタチヨ年若フシテ同皇族即チ天皇ノ姪中大兄ノ謀反ニ党スルノ疑ヒヲ得テ無期流罪ノ刑ニ処セラレ船偶偶風ノ為ニ困難ヲ極メ漸クシテ難ヲ凌キテ野村ノ沿海ニ着ス。

従者ノ同僚三人即チ 大和ノ住人川合義虎 長門陸奥ノ入道閑場斉 并々嬌子 出羽ノ義誠共奉ニ上陸ス村ノ輩ラ異様ノ貴人ナルヲ以テ不審ノ余リ尋問ス答フルニ実事ノ故ヨ以テス村長急足使ヲ以天皇陛下ニ摂津西成郡木荘邑ニアル長柄ノ豊坂ノ宮室ニ奉聞ス

天皇ソゾロニ哀ヲ催シ如何ニ一端悪人ニ党スルモ真ニ我最愛ノ女ニテ遠ク無辜ノ罪ニ伏シ流刑ニ所セラレシ其心口根ヲ不愍ニ思ハレ烏ノ啼カヌ日ハアルモ姫ヲ思ハザル日トテハ一日モナク晝夜朝暮ニ忘レザル愛子ノ漂着恙カナキノ報ヲ得テ豈ニ不問惜ミヲク理アラン哉心カヌ日ハアルモ姫ヲ思ハザル日トテハ一日モナク晝夜朝暮ニ忘レザル愛子ノ漂着恙カナキノ報ヲ得テ豈ニ不問惜ミヲク理アラン哉心中歓喜ノ余リ村長ニ命ヲ下シ村ニ新殿ヲ御セヨト恭クモ宣旨ヲ得タリ坪内村長ヲ叙スルニ五位ノ下へ名字御免賜リテ都築姓ヲ以テセラル是レ村長坪内ノ姫ヲ守護スル新殿ヲ築キ都ヲ建ルノ字ニナラフモ既ニシテ殿作リタルニ茫々乎タル原野モ今ハ賑ワシキ地トナレリ即チ都築美万ナル者ヲ始トシテ已下十四人へ都築ノ名ヲ勅免アリ

残余ノ村民へハ望ニ応シテ兔スニ野村姓ヲ以テス是他ナシ旧名ヲ末世伝ヘンノ策ナルヘシ新殿ノ守護職ニハ当国ノ人ニテ正親町三条ノ高胤タル戸田弾正光年ニ命シ殿ノ北城郭ヲ構造ス(其城跡現今日存ス)三四代、末末地名ヲヒデ守リト謂フ姫守リノ誤解習慣トナレリ此戸田氏後改テ松平ノ姓徳川氏給是今丹波憲光ノ祖也差添人トシテ内藤清常等已下数人ニ命ス今己ニ清長居城跡アリ清長ト即チ義清政長等ノ祖也 当時ハ皇姫滞居アリシヲ以テ万事堅固ナリ新殿南ニハ石川安正兄弟東西二亘り城ヲ構ヘリ(今現小川村中安正字ノ名アリ) 東ハ遠ク北北南へ流ル矢作ノ大川アリ故ヲ以テ掘ルニ只ノ一溝通スルノミ今ノ江川是也岩根ニハ加藤喜景城ヲ構シト云フ是跡アリ喜景ハ左馬頭侍従藤原喜明等ガ祖也北二当テ一郷アリ桜井ト名ク是桜井アルヲ以テ名トス是桜井主計原信光城ヲ構ヘテ要害ニ供フ信光ハ原光定松平家重等ガ祖也其他志貴ノ荘(此近辺村落之総称)ノ土民等ニ厚ク尊敬奉事スベキトノ宣命アリ皇姫自ラ守リ尊ム仏像一軀アリ木偶像ニシテ観音ナリ之ヲ殿ノ南ニ地ヲ占メ堂宇並ニ塔建設ス並ニ該仏ヲ置ス其堂守ヲ多賀ノ庄司森光へ命ズ

是堂ノ守護職ノ位置タリ森光ニ地ヲ給与ス即チ今ノ庄司屋敷ハ是也

爰ニ聖徳太子ノ親刻薬師ノ像ヲ安置スル堂宇小松山誓願寺ナリ

姫崩後数年ヲ経スシテ蓮華寺ト合ス給スル七町余歩ノ地アリ今ノ寺田ノ称即チ是也却説蓮華寺誓願寺ト合セシトハ如何ト案スルニ皇姫亡後ハ臣下相議シ修営セントスルノ際偶々後鳥羽帝ノ世平氏ノ乱ニ遇ヒ兵火ニ罹リタレバ共ニ合寺セシモノナルヘシ

美哀ヲ哉一朝ノ無常ノ颱風吹テ姫ノ命二及ブ実ニ天武帝白鳳十辛巳年六月廿四日殿中崩ス鳴呼痛哉守護職ヨリ天子へ奏スルニ崩逝報ヲ以テス忽チ近村落ノ衆僧ヲ会シ葬送ノ式ヲ掌ラシム且亡後ノ菩提ヲ営ノ宣旨ヲ下ス

法号ヲ皇浅間大菩薩ト勧請シ陵丘ヲ築ク即チ蓮華寺ノ宮詳岳天瑞正定聚ト称ス

皇姫所存中奉侍ノ命婦石ノ局ト云フ

漂着前后傍へ侍ス

逝去ス後年八十一朱鳥元丁亥正月九日死ス遺ニヨリ陵丘ノ東北二葬埋ス今ノシシヅカ也

後世誤リ称シタルナラン石墓事理ナリ新殿ノ方囲東南西北皆要害ヲ堅ニシテ西へ遙カニ万里ニ亘ル曠野也

西ノ入口ハ皇姫崩去ノ際夜一千束ノ芝草ヲ積シ篝火トセントテ芝山ノ名今ニ跡アリ

其西二亘リテ十町余大門口ニハ遠見ノ矢倉アリシトテ門原遠見塚ノ地アリ依テ古代ヨリノ当村ノ沿革は前ニ述ル如クニシテ其姫村ノ称ヲ下セシテ彼ノ志貴ノ荘ノ中皇姫所領ノ地ヲ悉ク姫ノ郷ト名ケタル事顕明也

 

明治廿稔冬十二月

小松山 誓願寺現住職

小松法剱

謹識

 

 

 

 

 

 


桜井村史 昭和182

 

 

綾姫伝説を補間、補強する資料として、桜井村史がある。但し昭和18年の本であり、

これ以前の碧海郡史(後述)や姫小川村史(前述)を参照して記載されている可能性が大きいが、どのような書物に綾姫や浅間神社に関して記載されているかを残す意味で記載しておく

 

  誓願寺 P574  (a)

 

誓願寺は大字姫小川に在って小松山と號し、檀徒は六十三戸で、助音地である姫小川の地名は孝徳天皇の皇女歌千代姫が船に依つて此地に来着し、その薨ずるに至つて菩提の爲め蓮華寺を営めるものが、當寺の起原と云はれ、歌千代姫の位牌(b)を始め、遺品と傳へらるるものを藏して居る。

内藤彌右衛門清長が此地に城ける頃、菩提寺と爲せしより、寺に清長以下一族の墓があり、康永・大永・天文・永祿・…

 

脚注

(a)誓願寺

古くから誓願寺をお守りしていた小松家が絶え、平成29年より清水芳樹住職に替わられました。住職不在の期間において、誓願寺内の古文書や掛け軸等が整理され、一部は誓願寺に残されました、安城市歴史博物館に保管されたり、多くは廃棄されたようです。

令和64月において、安城市歴史博物館に保管目録の提供をお願いしております。

また、後日清水住職にお願いし、残っている古文書や掛け軸などの目録を作成するとともに、

綾姫や姫小川にまつわる話が残っていないかを確認したいと思っています。

 

(b)位牌

白鳳十年辛巳六月廿四日御逝去 蓮華寺宮祥岳天瑞正定聚位 俗名哥千代様と記された位牌はまだ実際に拝見させて頂いたわけではないが、令和642日、誓願寺の現清水芳樹住職に確認したところ、それらしい物があることを確認。

 

 

 

村社浅間神社 P462

 

村社淺間神社は大字姫小川字姫四十番なる官有第一種の地に鎮座せられ咲耶姫命を御祭神とする。

創祀の由来は徵証を存せざるが傳説並に舊記に云ふ所にては、御鎮座地は往昔、東方より西南に海水を湛へし岬にして、今の土呂針崎方面へは海上を往來せしより海神なる豊玉姫命を奉祀するに至つたが、偶々村民の難産にて母子共に死する者多かりしより甲斐の浅間神社に参籠して勸請するに至り、爾来、難産の爲め死する者ゆと云はれ、今に産婦の祈願する者多きを致して居る。

尚は御鎮座地が前方後圓の古墳に接し附近に數箇の圓形古墳在するより、前方後圓墳を皇塚と稱し、孝徳天皇の皇女綾姫が船にて此地に来着あらせられ、白鳳十年六月二十四日に薨去ありしより葬る所にして、數箇の圓塚は随從の人を葬ると傳へ、之に依って姫郷と稱せしより姫小川と云ふことと爲り、當社をも一般に姫神社と云はれると。

 固より傳説にして考証の餘地なしと雖も、 由緒ある古社と察せられる。明治五年十月十四日には村社に定められ、姫小川の七十戸を氏子と爲し、社域は鎮座地百八十八坪なり しが、御料地百五十一坪境内編入依り、合せて三百三十九坪と爲った。

御社殿は梁間、九尺桁行七 五寸の流造、拝殿・渡殿・神饌所・社務所何れも瓦葺で、別に神明形の石鳥居・社標石・石燈籠がある。

 

祭典は古く陰暦八月十六日なりしが 明治四十年より九月二十六日に改められ、其後十月二十七日に定められ 現在に及んで居る

 

 

 

 


碧海郡誌 大正5

 

 

 社寺 誓願寺

 

誓 願 寺

櫻井村大字姫小川にあり真宗大谷派の寺院なり。傅へ云ふ孝徳天皇の皇女故ありて京を去り此の地に留寓し一心に觀世音佛を信じまた常に佛義を儈義峯に聞き給ふ。蓮華寺の宮と稱し奉る。

而して皇女遂に此の地にて薨去あり、従者謀りて一寺を立て僧義峯を請して開基とし以て宮の冥福を祈る寺を名づけて蓮華と云ひ(d)三論宗を奉じき。

寛正年間(e)當時住職義聲の時に至り本願寺の僧蓮如に帰依して、真宗に轉じ寺號を誓願寺と改む。

 

 

脚注

(d)新たに寺を建てたような記載であるが『姫小川の由来』では既に蓮華寺は建っていたように取れ、時間的な齟齬がありそうである。

 

(e)寛政年間

西暦1789年から1801

 

 

 

名勝舊蹟 姫塚 P793

 

櫻井村字姫小川誓願寺より東北二町許の處にあり、塚足方十四間高一丈五尺にして塚の中央に五輪塔あり村説に曰く、古へ本村の東面は海灣にして湖水北に進み入ること三里餘(i)、時に一つの扁舟本土の濱に漂着す、村長小川傳太郎といへるもの之を檢せしに、窈窕たる貴女の盛装したる傍ら嫻雅凡ならざる一女侍せり、これ蓋し宮中貴重の女なるが如し。

乃ち之を閭中に請し其の詳細を侍女に問ふ、始めて其の第三十七世の聖上孝徳天皇の皇女なることを知り、愕然として遥かに假宮を造営し以て村民尊奉せり。

而して侍女は(皇女の乳母なりといふ)後宮官人某と親しきに因り書を寄せて近況を報し愛顧を内奏せんことを請ふ。

是に於て矢部丹下内勅を奉して報す、乃ち厨下資料乏しからざるに至ることを得且つ長門都築河合野村の四氏をして奉仕せしむることを賜ふ。

乃ち村民を營んことを議して地をトし區畫經營す。其の地方五十間環らすに土垣を以てす。(ii)

宮殿成りて玆に延請す、朝暮觀世音佛を敬禮す蓮華寺と稱す。

小川村字堂開道蓮華寺の址と稱する地あり地姫小川と相接す。

白鳳十年辛巳六月二十四日薨せしかば村閭の北隅に葬る。

初め皇女罪有て謫せられ海濱に落魄し遂に此の僻邑に漂泊すと云ふ。

 蓮華寺宮の遺址字姫森と稱す、一名姫城 慶長年中其の地を割き櫻井村の内東町に入る、而して長門某等四名の邸慶安二年に至るまで各蠲税地なりしが三年庚寅より隙邸の名儀を以て些少の錢を納め来るといふ

 

· 獅子塚

櫻井村字東町にあり上に秋葉神祠あり。

天皇御惱みの時勅禱りて舞獅子の頭を各國神祠に納め給ふ、後之を埋むとい

ふ古塚なり。

 

 

脚注

(i)

現在の距離の定義では1里は4㎞ほどであるが、この1里≒4㎞の「里」をしっかりと決めたのが豊臣秀吉と言われている。「里」が日本に入ってきたのは、今から千数百年も前のことであり、律令制を中国から取り入れた大宝律令(701年)のころの「里」は、300歩=約533mと推定されている。もしかすれば、口伝の3里は当時の2㎞を示していたかもしれない。

 

  また、小川村を広くとらえれば、現在の鹿乗川周辺遺跡の発掘調査では 愛知県安城市木戸町惣作の惣作遺跡まで周辺遺跡は続いたと言える。この惣作遺跡から1.5km12㎞先に海があったものと言えるかもしれない。

とは言え、3里と言う言葉は碧海郡史しか記載されておらず、本当かどうかは今ではわからない伝説のままである。

 

(ii)

 

50間 およそ45mぐるりと土垣でとりまく と言う意味か?


伝説?

〇今現時点では綾姫様が本当に歴史上いらっしゃった?

 

わかりません、古事記などにも載ってませんから証明しようがありません

 

伝わってきたことを守り続けること それが大事であり、史実との照らし合わせは詳しい方にお任せします

 

本当にいらっしゃたなら、浅間神社ではなく、綾姫宮って名前変わってしまいますけど、

きっと今更神社庁は許してくれませんし

 

 

 

〇実在されたって考察している方もいらっしゃいます(本浅間神社HPよりも先輩です)

 

姫小川の由来 - 綾姫 姫小川の由来 日本書紀から消された姫 (jimdofree.com)

facebook:綾姫伝説(孝徳天皇皇女)>>綾姫(幼名:歌千代姫)の情報倉庫【公開】

 

 

他先輩方の考察

 

まだ読み込んでませんが、面白いです

 

綾姫は有間皇子の姉

斎王候補であった

鎌足とできてて、子供がいた 定恵(中臣真人)

綾姫には生まれた子が死産と伝えられた

岡崎福岡町に萱園って地がある

定恵は、豊璋(鎌足)の長子として僧侶になる

孝徳天皇は、娘の綾姫や有間皇子にも危険が迫ることを予測したため、娘との縁を切り流刑にすることにより安全な地に綾姫を逃がした

 

てな考察もされております。

 

どうここに至ったかはわかりませんが、歴史好きの方は追っかけてみると楽しいかもしれません