姫小川、浅間神社、綾姫を中心とした年表です 間違っているところありますが、ご愛敬
ーーーー旧石器時代紀元前10万年頃〜紀元前1万8000年頃ーーーーーーー
18.000年前
今より海面が130-140m低かった 美矢井橋付近では26mの深さ
新幹線のそばまで海面が下がる
海底にたまった土が顔を出す
海に沿って砂山を築く
山中でみられる東西に長い丘はその名残
北側が急で南がなだらか 旧海岸堤防
後退が進むと海岸堤防も南にできる
藤井野寺桜井幼稚園の東、下谷の西にも同じ形
後退する時期には矢作川の流れる地点は海面に対して深くえぐれている
この時削られてできた崖は木戸から東町、古井にみられる。
ーーーーー縄文時代紀元前約1万8000年頃〜紀元前300年頃ーーーーーー
6000年前縄文時代前期
海進が始まる
現海抜の7.5m
羽角山の7.3m地点で海成層がある
桜井には海岸線はきていなかった
(鹿乘川周辺遺跡は7mぐらいに住居跡)
来ていても小向ぐらい
晩期の中頃
堀内貝塚2700から2500年前
鹿、イノシシ、野兎、淡水魚、海水魚、貝
釣り針はあった 石器
海岸線は6,7km南
2100年前 稲作の村ができ始める
ーーーー弥生時代紀元前300年〜紀元後250年ーーーーーーーーーーー
2000年前(桜井の歴史)住み始めた
(現在の海岸線は14km先)
低地でも起伏があり、湿地には葦が生えていた
姫下遺跡
六ツ美の東に矢作川
ーーーー古墳時代250年頃〜592年ーーーーーーーーーーーーー
後期1800年前
さらに集落が広がる
鉄器 稲作 中央との繋がりを示唆する
西尾では銅鐸
収穫を感謝する儀式はあったが、新嘗祭とは言われていない
◯神武天皇 を紀元
2021年は紀元2681
天皇の最初の頃は1年2倍歴であり、
紀元が西暦で何年かははっきりしていない。
倭の五王
この時代に 新嘗という言葉が出てくる
300年代?
二子古墳、姫小川古墳
4世紀末 他の円墳
國、小国家の王
祭りの指示、交通路を支配 一部は大和政権の臣下になった
倭と同じ神を祀る
430 桜井郷が
この頃から桜井神社 白山社はあった
式内社若桜神社
西尾羽角山古墳群 西三河最大 6世紀中葉
鳥羽神宮寺 7世紀後葉
矢作川の「矢作」は、古代の人々がこの地で「矢を矧はいだ(矢を作っていた)」ことに由来
伝説によると、日本武尊やまとたけるのみことが東夷征伐の際、この地に生えている竹で矢を作らせ、戦いに勝利した
雄略天皇457〜479
はせべのとねり 長谷部舎人
○ヤマト王権500年ごろ 3世紀?
尾張 三河 穂に分かれていて
三河国の碧海郡の中の村が姫小川 (小川村の一部)
大和王権は朝鮮に派兵
534 古井の田部があり
皇妃香香有媛の御名代部に定賜
5世紀後半 矢作川は大川と呼ばれていた
500年前後 倭王権に歯向かう国家が増える
名代をつけて、支配 雄略天皇の元の名は長谷部若建命おおはせのわかたけのみこと
長谷部と名乗る長谷部舎人はせべのとねり
蘇我氏暗躍
安閑天皇元年の条(534)に全国の土地と人民を
皇妃の香香有媛かがりひめに与えて、桜井の屯倉みやけとなずけた
592 天皇暗殺事件
倭姫?垂仁天皇の娘
ーーーー飛鳥時代 592〜ーーーーーーーーーーーーー
622聖徳太子がなくなる
蘇我入鹿が国を仕切る
中国との交流 漢字
碧海郡の由来 へきかいとかあおみと読む
今の姫小川浅間神社、当事は海の神様 豊玉姫を祀っていた
629 綾姫生誕
645 大化の改新 蘇我氏滅亡
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足によって入鹿は太極殿で暗殺される
644綾姫15歳
645 乙巳の変
聖徳太子が亡くなった後、実権を握ったのが蘇我入鹿
蘇我氏への不満がピークに達し、中臣鎌足と中大兄皇が中心となった反蘇我勢力は、乙巳の変(いっしのへん)を起こした。
都が出雲から摂津(大阪)に移る
綾姫が姫小川にたどり着く(綾姫伝説)
律令制、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された
645以降御(三)と穂を一つに合わせて三河国に
663 朝鮮半島での白村江の戦い敗戦 防人
大陸に対して国を一つにし統率する
物理的、精神的な支配
672 壬申の乱
天武天皇元(672)年に天智天皇の後継をめぐって弟・大海人皇子と息子・大友皇子により、今の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域を舞台に展開された古代史上最大の戦乱
大海人皇子が勝つ 天武天皇
673 40代天武天皇 大嘗祭を始める当時は大嘗会
式年遷宮を始める
伊勢神宮 神社体系の頂点に
倭→日本 大王→天皇
681 綾姫がなくなる 白鳳10年6月24日
690 41代持統天皇で 大嘗祭の主要な形ができる
豊玉神社を古墳上に遷宮
7世紀後半 寺領廃寺
大嘗祭
新しい天皇が即位した最初の新嘗祭が大嘗祭
700 西尾久麻久くまく神社 八ツ面山 吉良荘の中心 吉良は元今川
701 美川と穂が合わさる
物部氏の支配
賀茂郡8郷 額田郡 7郷1駅
碧海郡15郷1駅 幡豆郡8郷
当時1郷は50軒、一軒は50名ほどと言われている
桜井郷は櫻林小学校近辺で桜井、堀内、川島、村高
小川郷は小川岩根寺領木戸藤井大帳天神小向
ーーーー奈良時代710年〜794年ーーーーーーーーーー
712 古事記
新嘗 単語出てくる
スサノオが悪さした記述
713和銅6 八ツ面の雲母が出雲に献上
713 桜井郷
奈良時代に沖積から台地
717 泰澄澄が平泉寺を白山信仰が広まる
718 紀伊国野田郷の修験者の野田熊勝が川島に
大神と菊理媛神を奉祀祀した
寺領廃寺
三河国は7郡に
姫の郷と呼ばれていた
寺領に寺ができたが今は遺構のみとなっている岡崎北野廃寺と同時期と言われている
50戸を里のちに郷
ーーーー平安時代 794〜 400年ほどーーーーーーーーーーーーー
835 律令制下、東海道の元ができており、矢作川を渡し舟で
官営の渡し (2→4にしろ)
859清和天皇時の斎田は西尾
この時に大嘗祭の単語が見つかる
930年 碧海郡の郷
小河、桜井、智立、釆女うねめ、刑部おさかべ、依網よさみ、鷲取、谷部はせべ、大市、碧海あおみ、ムレ、アサミ、河内、大岡、アザブノの13郷
時期不詳
浅間神社は最初豊玉姫命を祀っていたが、村で難産が続いて甲斐国の浅間神社から分社してもらい今の浅間神社となる。
承平時代931〜938 和名類じょう抄 律令制下
国郡里(郷) 碧海郡に郷は16 小河桜井があった
(奈良時代の木簡には他にもあったと書いてあったらしい)
10世紀前半 法律書 延喜式
国内神明帳 比蘇天神 小河天神の記載あり
10世紀前半 碧海郡は15の郷
知立、采女刑部、桜井、河内、小河大岡など
ーーーー鎌倉時代 1185〜ーーーーーーーーーーーーー
1255年に朝円が親鸞の肖像画を書き、「参河国安城照空房」が所蔵していた。
これが「安静御影(安城御影)」と呼ばれることから、既に鎌倉時代初頭には安静(安城・安祥)と呼ばれていたことが分かる
ーーーー室町時代 1336〜-----------------------------
1399六名堤
岡崎を中心として矢作川左岸中流まで川筋が固定された 高さはせいぜい3m
1452〜55 西郷頼嗣が岡崎城築城に合わせて西堤築堤
誓願寺が今の場所?
ーーーー戦国時代 1467〜-----------------------------
松平、徳川のゆかりの地
三河一向一揆の中心 本證寺はすぐそば
町の誓願寺も一緒に戦い、櫓もあった寺なんだけどさ。
桜井城 小浦喜平次忠重が建てる 場所は桜井町城河原50
昭和に於いては城山保育園が建っていた
同じ時期に石川氏の小川城、加藤氏の岩根城があった
小川城 安城市小川町的場丘13
岩根城 愛知県安城市小川町岩根下 本證寺東
姫小川城もこのころか?
1501 桜井城は松平親房に落とされる(桜井松平)
安祥松平親忠(大給松平)の息子
--------------安土桃山時代 1573〜-----------------------------
XXX 家康が関東に移るとともに、桜井松平は武蔵国松山に移り
桜井城は廃城となる
--------------江戸時代-----------------------------
1586 天正地震 岡崎城倒壊
1590〜1600岡崎城主田中吉政によって連続堤
1603新川開削指示 家康→西尾藩主 完成は1605
新川は急勾配のために川幅の拡大が進む
油ヶ淵に溜まる
1644 矢作新川と油が淵を堤で分離
米津から鷲塚間
1646 上青野切れ
妙覚池という巨大な池がありましたが、1649年に埋め立てられました。
1757 北野切れ
川床が1.5m上昇
1765 猿投山吹抜け
左岸は27kmに渡り本流並みの流れ
1822 文政の大洪水
矢作橋上流右岸決壊 また左岸も決壊
桜井や木戸は度重なる洪水
鹿乗川吐口逆水
1831 鹿乗川開墾 川が直線になる
1838 鹿乗川天保9年 矢作川が川床が上がってしまっているため、
鹿乗川を寺領から2㎞先で新川に落とす計画がでた1が、村の調整で天保9年にやっと完成
1840旧薬師堂 天保10年 神仏分離のため合祀されいたお薬師さんを分離?
建立社務所内から
1842 小川村 347戸 1442名 安城歴史博物館
1850 天白切れ
ーーーー明治時代ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1868 明治元年神仏分離令
神仏分離で 桜井神社の薬師如来座像が閉会分桜井町字院???に移された、のちに神社内に戻された
このお薬師さんは川島、古井、この地区の三薬師と言われている
(姫小川浅間神社のお薬師さんって いつ? 分家?)
1872 明治5年 浅間神社村社 70軒の氏子
1880年明治13年明治用水 完成
農作に向かなかった安城が原が農地に
後に日本のデンマークとなる
1884明治17年 浅間神社改築
1888明治21年 59世帯
1889明治22碧海郡姫小川村が合併により、桜井村大字姫小川
1889明治22年岡崎北野から藤井までの15㎞の間の堤防が完成
1890 帝国軍の地図 明治用水できて10年
田んぼがいっぱい
畔は識別不可
1891年明治24年 東海道線安城駅開業
1906明治39 町制
1911 明治44西尾鉄道
----------大正-----------------------------
1912 西三軌道→西尾鉄道に名称変更
1914 桜井天神社古墳上大正3年10月合祀
1920〜1930 日本のデンマークと呼ばれる
----------昭和-----------------------------
1927 姫小川古墳昭和2国指定遺跡
1928昭和3 西尾駅移転 碧海電鉄と接続
1935 愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併して名古屋鉄道
1937 昭和12年 浅間神社社務所新築 境内拡張
1941 太平洋戦争
1943 岡崎新駅-西尾間 休止 翌年廃止
戦中であり、不要不急として廃止された
1944 名古屋鉄道が碧海電気鉄道を合併
ーーーーーーーーーーー現代ーーーーーーーーーーー
1945 終戦
三河大地震 本殿倒壊
1956昭和31年桜井町大字姫小川
1952 昭和27 安城市 37000人
浅間神社 造営復興
1967年(昭和42年) - 安城市姫小川町となる
1962昭和37年 100世帯なかったような?
197X年 姫郷地名艦徳川三代言上控が社務所から見つかる
1975年 姫小川の由来を発行
1980昭和50年 200世帯 820名
お薬師さん改築
-----------------------------平成-----------------------------
1990平成2年 社務所増築
1995 平成7年 秋葉神社遷宮
2000平成12年 氏子数355戸 姫小川の由来を新編 宮係野村征嗣ゆきつぐ
-----------------------------令和-----------------------------
2024令和6年3月 町内会 613戸
姫小川町 浅間神社
444-1161
愛知県安城市姫小川町姫40番地
町内会第2公民館(土曜日13時から15時)
TEL0566-
宮係 永見幸久 090-2929-1140
宮係 榊原恒明 080-5124-5847
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