綾姫の時代の地形図調べていたら、いろいろと面白そうな地図を見ます

 

明治時代の陸軍が作った地図 戦後まもない地図

建物や畑、道路がわかります

国鉄が開通するとともに、現在のJR岡崎駅から、六ッ美を通って八面山から西尾まで鉄道がありました。

名鉄西尾線と繋がっていましたけど、戦前に廃止されました。

六ッ美は駅の名残の場所が幾つかあります。

戦前では和泉方面に飛行場、姫小川の西には溜池や碧海山って山もありました。

 

明治用水ができたことで、この山も田畑にかわってしまい、今は面影を感じられません。

山田や山中って地名が残っていますが、その当時の名残になります

 

地名には昔を知る良いデータです。

以下 独り言)

 

でも行政が楽をしたいから、どんどん地名がなくなっています来年1月から、姫小川町の幾つかの地名がなくなります。

北門原や遠見塚もなくなって、大雑把な姫西に代わります

 

ここに限った話ではなく、全国各地でこんなことが起きています。

そのために、地図から消えてしまった地名の本もあります(図書館にありますよ)

 

なんなんでしょう?歴史や文化大切にしましょうと言っていながら、ポンポン地名をなくす、寺も神社も行政は面倒を見ない、町内会になんでもおんぶに抱っこ (ごみステーション、見守り、安全パトロールにしても)

 

日本の文化は素晴らしい、だから観光、インバウンド

日本の文化は廃れてきているんだがね

 

(独り言終わり)

 

 

もっと古い時代は?

残っているのは江戸時代の古地図

 

目的な年貢取るためなんですけど、いくつか古地図は現存しています。

多くは西尾の岩瀬文庫に所蔵されており、それを古地図集として発行され、安城市の埋没文化財センターやアンフォーレなどで閲覧することができます。

 

目的もって見るととても楽しめますよ

 

 


今の時代は便利です

ネットでいろんなことを調べられます

たとえばこんなのお家のパソコンから見ることができます

 

現在の技術を使って、昔を想像

今はドローンとかLiDARなんかの技術を使えば、気づかないことを知ることができます。

 

国土地理院には、昔の測量データとか、最近の標高データとか調べることができます。

 

 

白黒は1960年代の航空写真

一番下は、50㎝毎の標高データ

 

こんなん見ていると旧桜井小学校の東は低地

蛇行していた鹿乗川の水と小川の加美から流れてきた水が溜まっていました。

地名で阿原ってのありますが、昔は悪原って書いていました。

水捌けの悪い場所によく使われて、矢作川沿岸で阿原って地名はいっぱいあります。

 

そんなデータの積み重ねで、645年の地図を想像していました

(別ページ)

 

そこからいろんなこともわかってきますし、疑問も出てきます。

 

戦国時代の桜井城

東は湿地だったから、防衛には都合が良い  だからなのね! 今でも水捌け悪いし。

 

矢作古川は今八面山の東の狭い谷間を通っています。

なんででしょう?    そんなわざわざ狭いところを?

 

地質図みると更に不思議です。

姫小川は碧海台地の上にあります。

東は矢作川から流れ出て堆積した砂地です。

 

でもきっと、砂に埋もれたのは、室町時代から始まった治水(岡崎の矢作西堤 江戸の矢作川築堤)によって起こった洪水被害のためではないでしょうかね?

鹿乗川周辺遺跡の地層はその後50㎝程度の堆積(?)で、砂が増えているのでは?

(地図の黄色は砂の自然堤防)

 

古墳時代は矢作川流域は広く、流れも緩やかで、多くは細かい土、粘土の堆積だったのでは?

 

地図を東側に移せば、矢作川を挟んだ幸田や西尾は、まったく異なる地層(茶色や深緑)

幸田はその地層で囲まれた広くて浅い湖、菱池でした。  (菱:湿地層に生える草の実が菱型ってことらしい。幸田の博物館)

 

で、この地層の色を見ると、飛び地で八面山がありました どうして飛び地になっているんでしょう?

 

勝手な想像をすると、昔は繋がっていたんとちゃう?

氷河時代とか、全球凍結時代とか、堤防みたいになっていたかもしれない。

たまった水が、八面山東を流れ、矢作古川の谷を形成

さらに、氷河期が終わったときにたまった水で、堤防が決壊して、八面山が取り残された?

 

その後は矢作川が本流をなんども変えて、更に砂が堆積(いろいろ旧道がどこだったか論文がある。六ッ美民俗資料館に残されています)

今は真っ平だけど、綾姫の時代は、まだ少しの高低があって、姫小川から幸田の菱池近辺まで、舟で行き交いできる湿地で繋がってたんとちゃいますか?

 

誰か教えて頂戴